選挙の裏話

選挙最終日・選挙活動を終えて撮影。妻のお腹には妊娠7ヶ月の息子がいました。



今後村議会議員を目指す若い人たちの参考になるよう、出馬の意志から当選までの過程をご紹介します。


1回目の選挙・平成19年4月


1.出馬の意志
 出馬の意志を固めたのは、2003年の前回村議会議員選挙のときです。当時からエコツーリズムの推進に政治と行政の壁を感じていたので、誰か若い人でエコツーリズムに理解のある人を推薦擁立したいと考えていました。数人に声をかけましたが断られてしまいました。この時、「自分がやるしかない」と決意しました。しかし、小笠原に来島して2年しか経過しておらず、実績も経験もほとんどない状況で出馬するのは、まだ時期尚早と判断して出馬を断念しました。

2.理解者との出会い
 小笠原ホエールウォッチング協会と小笠原エコツーリズム推進委員会で活動する中、議会の傍聴に訪れたときに出会ったのが、当時議会事務局でアルバイトをしていた妻です。同郷であったことから意気投合し、やがて付き合うようになり、結婚の話になりました。結婚前に妻には「次回、村議会議員選挙に立候補するが応援してくれるか?」という話をして、快く了解してくれました。この狭い島の中の選挙で、一番大変な思いをさせるのは家族です。選挙の7-8ヶ月前くらいに改めて妻に同じ質問をしました。夫が無職になり、引っ越して前よりも狭いアパートに住まなければいけない。3才の娘を抱えて、当選するかどうかも分からないし、落選したらみじめな思いをしなければならないという状況で、妻が出馬の同意をしてくれた時は本当に感謝しました。家族という最高の理解者を得られたことが、今回の選挙で一番大きな支えとなりました。


3.周囲への出馬表明
 2003年、出馬の意志を固めてからすぐに、両親、実兄、職場の同僚や上司、島内外の友人などに選挙出馬の意志を伝えると共に、政治家としての適正があるのかどうか?の判断を仰ぎました。選挙まで数年先の話だったので、多くの人は半信半疑で聞いていました。しかし、友人の多くは「一木らしい選択」「一木に向いてる職業」と太鼓判を押してくれ、具体的なアドバイスをくれた友人もいました。

4.選挙の前年
 選挙前年の2006年、出馬に向けた準備は急ピッチで進みました。小笠原ホエールウォッチング協会の会長、副会長には2006年4月の時点で出馬のために翌年の春には退職する予定を伝えました。正式に辞職の意志を会長に伝えたのは選挙約半年前の2006年11月頃です。同時期、私の実の両親、妻の方の両親、実兄にも正式に出馬の意志を伝えました。双方の両親から「応援しているからがんばれ」との言葉を頂きました。身近な友人達にも正式に出馬の意志を伝えました。そんな矢先、妻の妊娠が分かりました。想定外のことだったのですが、一抹の不安を感じながらも妻と二人で喜び合いました。出馬の意志を正式に表明したので公職選挙法の「候補者になろうとする者」となります。そのため、小笠原村内宛に年賀状を出すことが禁じられているため、村内への年賀状は控えました。

5.選挙まであと3ヶ月
 選挙まで残り3ヶ月となりあわただしくなってきました。仕事を辞めるための残務整理、年度末の繁忙、会社の借り上げアパートだったので引っ越しの準備と作業、独立開業に向けた準備、選挙に向けた準備など、人生でもっとも忙しかった3ヶ月間でした。

6.選挙まであと2週間
 会社を無事円満退職し、引っ越しも終え、独立カ開業に向けた準備は一時ストップし、選挙に向けた具体的な準備が始まりました。妻と話し合った結果、今回の選挙は家族中心ですることを決めていたので、選挙ポスター、公選はがき(800枚配布可能)、選挙カーの準備、たすきの作成などの準備は、すべて私と妻でやりました。ただ、選挙カーの運転、公選はがきの宛名書きは自分たちの力だけではできないと判断し、島の先輩2名、大学の先輩、元上司の4人にボランティアで頼みました。選挙の応援は重労働だけでなく、しがらみの多い島内では大変勇気のいることです。選挙を手伝ってくれた諸先輩方には言葉にできない感謝の気持ちでいっぱいです。

選挙の方針は妻と話し合った結果以下の通りとなりました。
・名前を叫ぶ連呼行為は極力避ける。
・街頭演説で政策を訴える。
・電話での投票依頼は一切行わない。
・妊娠している妻の体力を考え、選挙カーでの街頭演説は10時から12時、14時から16時まで(最終日は暗くなるまで)とする。
・集票依頼を一切しない(上記4人の選挙ボランティアにも集票依頼をしていません)。
・選挙が終わるまで票読みをしない。支持者名簿を作らない。

6.告示日
 選挙ポスター、公選はがき、選挙カーの準備をすべて終え、告示日を迎えました。告示日とは立候補を受け付ける日で1日しかありません。この日に立候補届のすべての書類を揃え、選挙管理委員会に提出しなければいけません。ここで書類の不備があると受理されず、立候補者になれません。受理されるとすぐに選挙活動をすることができます。選挙事務所は自宅にしました。私以外の各候補者陣営は事務所開きを華々しくやっていましたが、私達の事務所には家族しかいないので、質素にいつも通りの生活ペースで選挙がはじまりました。立候補届が受理されてすぐ、選挙カーにポスターや自分の名前を掲示しました。その後、妻と元上司と共に選挙ポスターを貼りに行きました。11時頃に元職場の前で街頭演説の第一声を上げました。その後、政策と名前の連呼をしましたが、60Wのスピーカーでは声が小さいらしく、大きな声で話すように心がけました。

7.選挙2日目ー4日目
 2日目は母島で選挙活動。元上司の二人で16時まで街頭演説を中心に町中を歩きました。3日目と4日目は選挙カーで街頭演説を繰り返し、父島の小さな集落でも街頭演説をやりました。途中妻の体調が悪くなり、妻は家で静養していることもありましたが、大学の先輩と元上司の支えで街頭演説で政策を訴え続けました。マイクが途中で壊れてしまうアクシデントもありました。街頭演説では顔を出して聞いてくれる有権者はほとんどいません。島の知人がたまに聞いてくれているくらいです。孤独感と寂しさを感じながらも、有権者が聞いてくれていることを信じて演説するしかないのです。


8.選挙最終日
 村議選の選挙期間は5日間です。選挙最終日は土曜日だったので家にいるお父さんをターゲットにしぼり、原稿も変えて街頭演説に臨みました。原稿は今までの3分の1の長さにしました。島内を幅広く回り、最後は家族だけが見守る中、清瀬の交差点で暗くなるまで街頭演説を繰り返しました。最後は声もガラガラで声がうわずってしまう状況でした。家族で夕飯を食べているときも他の候補者は連呼を繰り返していました。焦る気持ちもありましたが、自分たちのスタイルを貫く決意で選挙が終わる20時を待っていました。20時になった時点で選挙カーのポスターを外しました。当然夜は寝付けません。達成感はありましたが、自分たちの選挙の方針が正しかったのかどうか?を誰も判断することができません。選挙にかかったお金は全部でたったの2万5千円万円程度です。落選したら「選挙をなめているのか?」と叱られるでしょう。明日の結果を待つしかありませんでした。寝付けない深夜、選挙期間中はやらないと決めていた票読みを、布団で寝ながらやってみました。私や妻の友人、元職場の関係者、選挙期間中「応援してるからから」と支持してくれた人の数を含めても、30票しかないことが分かり愕然としました。
「もうだめだ。。。」
突きつけられた現実と淡い期待の中でほとんど寝ることができず朝を迎えました。

9.選挙当日
 選挙当日はもちろん選挙活動はできません。日曜日だったのでいつも通りの生活をしようと、娘と二人でホライズンドリームへ朝食を食べに行きました。その後、小祝で買い物をして町中を歩いていると有権者の方から「随分余裕だね」と言われてしまいました。でも、娘にも迷惑をかけてきたし、娘は休日デートをいつも楽しみにしているので、堂々といつも通りの生活を貫きました。午後に家族3人で投票に行きました。自分の名前を投票用紙に書いたら、つい力が入りすぎて投票用紙が破けてしまい、役場職員の方に笑われてしまいました。開票の21時に福祉センターへ家族3人で出向きました。立候補者で開票場にいたのは私だけでした。他の立候補者の支持者がたくさん集まっている中、私の支持者は妻と娘以外に誰一人いませんでした。

10.開票作業
 9人の立候補者中、落選するのは一人だけです。開票作業は各陣営、候補者以外の有権者が開票立会人として出席するのですが、手続きするのを忘れてしまい、私の陣営から開票立会人を出すことができませんでした。テーブルに各候補者の名前が記された紙が置いてあり、その紙の上に50束の投票表紙が置かれていきます。一束置かれると50票得たことになります。最初に50票の束が私の名前のところに置かれたとき、「票読み以上の票がとれた」と思い、その時点で半分力が抜けてしまいました。次に50票の束が置かれたときは信じられなくて頭が呆然としてしまいました。続いて50票の束が置かれたときは100%力が抜けてしまい、他候補者の支持者の方が私の体を支えてくれた程です。最後にすべての候補者の得票数が掲示され、自分が当選したことを確認しました。妻が隣で泣き出しているのを覚えています。私は涙もろい性格なので当選したら絶対に号泣すると思っていましたが、不思議と涙が出てきませんでした。黒板に掲示された私の得票数である「158」という数字だけをしばらく見つめていたのですが、責任の重さとみんなの期待の大きさに、とても感傷的になっている余裕はありませんでした。

11.家族で祝杯
 私たち家族中心の選挙活動を物語るエピソードがあります。当選した各陣営には大勢の支持者が集まって祝杯をあげていたと聞きました。私たちの選挙事務所である自宅には誰一人として訪れる人はいませんでした。お祝いの電話を入れてくれたのは、選挙期間中に娘を面倒みてくれた恩人と、母島で応援してくれていた尊敬する長老一人だけでした。娘が眠りについた後、妻と二人で冷凍お好み焼きをつまみに祝杯をあげました。1時間半ほど妻と語り合いました。翌朝、娘が起きてから家族3人で当選したやろうと決めていた万歳三唱を実行し、私たち家族の選挙は終わりました。






                 


 2回目の選挙・平成23年4月

1.迷い

 

「議員を続けたい。でも自分は政治家としての能力があるのか?本当に村民に役立っているのだろうか?」

 

初当選してから4年目の夏、2回目の選挙を迎えるにあたって迷いがありました。

 

「俺じゃなくても村を良くしてくれる人は、もっと他にもいるんじゃないか・・・」

 

自信も失っていました。でも立候補して当選させて頂いた以上、誰にも弱音を見せる訳にはいきませんでした。迷いを払拭するために、より一層の政治活動をすることで、自信を取り戻そうと必死でした。

 

 

 

 

 

2.自信を取り戻す

 

そんな時、自信を大きく回復させてくれる一本の電話が平成22年10月に入りました。

 

「おめでとうございます!一木さん、マニフェスト大賞の優秀賞を受賞しましたよ!」

 

マニフェスト大賞は早稲田大学マニフェスト研究所や毎日新聞社が協賛し、社団法人日本青年会議所が後援し おり、国内最大の政治活動コンテストです。地方議員の間でマニフェスト大賞は、「政治活動の甲子園」と呼ばれています。悩みながらも毎議会発行し続けた機 関誌コーラルラインの全戸配布と、その活動内容が受賞理由でした。授賞式当日、最優秀賞の次点である審査委員会特別賞も頂けました。私はこの時、再び自信 を取り戻しました。

 

「俺がやっている方向性に間違いはない。村民のためになっているはずだ。」

 

私は六本木ヒルズで行われた授賞式の檀上でそう確信しました。

 

「二期目にチャレンジして、次はこの4年間の活動に対する村民の審判を受けよう。」

 

私は心に誓いました。

 

 

 

 

 

3.突っ張ったこだわり

 

公職選挙法の規定で、選挙運動は告示日以降でないとやってはいけません。告示日前に選挙運動をすると、事 前運動と見なされて逮捕されてしまいます。しかし、選挙準備のための関係者との打ち合わせ等は、告示日前でもやっても構いません。平成22年末になるとち らほら、他の候補の選挙準備の話しが聞こえてきました。平成23年1月頃になるとあちこちで選挙準備の話しが聞こえてきます。私は焦りました。しかし私 は、

 

「この4年間の活動に対する村民の審判を受ける」

 

事を目標にしていたため、じっと我慢しました。2月になってようやく、前回の選挙を手伝ってくれた2人の 先輩に話しをして、選挙準備の話しをしました。しかし、選挙準備もこの2人以外には広げませんでした。事務所は都営住宅の自宅を予定しました。後日、都営 住宅の目的外使用の許可を受けに小笠原支庁に行ったら、

 

「都営住宅を選挙事務所にという申請は東京都の長い歴史で初めてです。」

 

と言われました。

 

「選挙活動は最小限に抑え、この4年間の活動を評価してもらう。」

 

私は他の候補者から

 

「お前は突っ張ってるなぁ」

 

と言われました。私にはただ当選すればいいというだけではない、青臭い、突っ張ったこだわりがありました。

 

 

 

 

 

4.村民は必ず見てくれている

 

4月に入ると各候補の選挙準備は活発になってきます。だんだんと私と目を合わせない村民も増えてきました。

 

「この人は他の候補の選挙応援を頼まれたんだろうなぁ」

 

直感ですぐに分かりました。一方、嬉しいことに村民の方から

 

「一木さんの選挙応援をしたい。」

 

と話しを持ちかけてくれる村民もたくさんいました。しかし私は

 

「応援をして頂けるのは大変ありがたい話しです。しかし、今回の選挙は家族と前回選挙で手伝ってくれた先輩達で頑張ります。申し訳ありません。」

 

とお断りしてきました。各候補が選挙直前に政治活動のビラを配布する中、私の機関誌は選挙直前に配布をしませんでした。

 

「選挙直前に政治活動のビラを配布しなくても、村民は必ず4年間の活動を見てきてくれている。」

 

そう信じていました。一方、今回は選挙にならないのでは?という見方がありました。前評判では定員8人の うち、候補者は8人しかいませんでした。選挙にならなかったら、私の4年間の政治活動が評価を受けたのか、受けなかったのか、わかりません。私は無選挙に ならないことを祈っていました。

 

 

 

 

 

4.選挙になる!

 

3月23日、立候補予定者説明会がありました。前評判通りの父島の6人の候補者以外にポツリと一人、知り合いの村民が混じっていました。

 

「どの候補者を応援しているのだろう??」

 

と思い、説明会が終わって話しかけてみると、ご本人が出馬する意向を固めている事を知りました。

 

「選挙になる!!」

 

私はその日、嬉しくて大喜びしました。その一方、大きな不安も生じてきました。

 

 

 

 

 

5.選挙直前

 

4月に入ってすぐに、私は自分で選挙ポスターと選挙はがきを作りました。それと5日間の選挙活動の行程表 を作って、選挙応援をしてもらう2人の先輩とスケジュールを調整しました。私の選挙準備はこの程度で終わりです。選挙直前の4月中旬になっても私は、村民 からの要望を実現するべく、選挙準備ではなく、いつも通りの政治活動を毎日していました。村民から

 

「今回は随分余裕があるね?」

 

と言われる事が多かったですが、私は現職であり、小笠原村議会議員の任期中にある選挙なので、政治活動よりも選挙活動を優先するという考え方には賛同できませんでした。選挙準備で忙しい時も、村民からの政治活動の要望があればすぐに飛んでいきました。

 

6.告示日

 

告示日当日の朝、村民から要望の電話がありました。水道水の放射性物質の濃度を詳細に調べて欲しいという 内容でした。私は8時半の告示日受付よりも少し早い時間に村役場に到着し、立候補届けの受付を済ませた後、建設水道課に出向いて要望内容を課長に伝えまし た。その後すぐに立候補届けを提出して受理されました。

 

 届出後すぐに選挙ポスターを貼りに行きました。父島内はポスター掲示場所が8箇所あります。母島のポスター 貼りは小笠原エコツーリズム推進委員会時代の先輩に頼みました。ポスター貼りを1時間程で終えて、いよいよ街頭演説の始まりです。私は前回選挙と同じよう に、最初の第一声を以前に私が勤めていた小笠原ホエールウォッチング協会前でやりました。その後、西町、東町、清瀬、奥村を渡り歩き、街頭演説を繰り返し ました。名前や政策の連呼は一切しませんでした。電話投票依頼も選挙ハガキを出せなかった数人の知人以外、一切しませんでした。初日の街頭演説は少々気合 いが入り過ぎて、手伝ってもらっている先輩から

 

「選挙最終日みたい・・・」

 

と言われてしまいました・・・それと、演説原稿に「お願い」が多すぎるような気がしてなりませんでした。私は単に「お願い」するのではなく、自分の政策をきちんと村民に訴えて支持を集めなければならないと感じました。

 

 初日の選挙で感じたことは、前回選挙とは大きく異なり、手を振ってくれたり、演説を聴いてくれる村民が格段に増えた事でした。嬉しさのあまり演説についつい熱が入り、確かな手応えを感じていました。その一方、普段はあまり交流のない村民と直接話しをすると

 

「あなたが落選したら小笠原村はもうお終い」

 

「議員の中で一番仕事をしているし、実績もあるし、村民への説明もしている」

 

「村民はあたなを絶対に落選させてはいけない」

 

とお褒めの言葉ばかりを頂くのですが、応援している候補者を聞くと、ほとんどの場合、私以外の候補者でした・・・その理由は

 

「先に頼まれたから・・・」

 

がほとんどでした。私の心の中は評価してもらえて嬉しい気持ちと、焦りが入り交じっていました。

 

 

 

 

 

7.選挙2日目―4日目

 

告示日翌日の2日目、告示日の反省を活かして演説原稿を大幅に変更しました。原稿から「お願い」という言葉を削除しました。気合いが入り過ぎているかな?と思い、少しトーンを下げて街頭演説をしてみましたが、先輩から

 

「大人しく演説するとあなたの個性が活かされない。インパクトがなくなるから今まで通りにしては。」

 

とのアドバイスを頂き、再び絶叫演説に切り替えて、熱く語りかけて支持を訴えました。

 

 3日目は人里離れた集落を中心に街頭演説をしました。人が大勢いる集落ばかりでなく、数軒しかないような集落でも出向いて、支持を訴えました。

 

 4日目は先輩と2人で母島に行きました。母島でも大きな声で、気持ちを込めて支持を訴えました。普段から懇意にさせてもらっている他の候補者を応援する村民から

 

「気合いが入りすぎ、声がでかすぎ・・・」

 

とご指摘を受けましたが、連呼をせずにメリハリをつけて街頭演説をしているので、自分達のやり方で、少しマイクの音量を下げて、街頭演説を繰り返しました。

 

 

 

 

 

8.選挙最終日

 

5日目、父島のすべての集落を回るため、演説原稿を1/3にしました。

 

「15回機関誌を配った。ブログも2日に一度書いてきた。明日の選挙結果は、4年間の政治活動の評価。共感をして頂ければ、一票の力を私に託して下さい。」

 

私は短い原稿の中に「15回」「2日に一度」「4年間」等の数字をたくさん入れて、これまでの実績を「数字」で表現して、演説にインパクトを与えてみました。

 

 すべての集落を回り終えたのは17時半頃でした。少し早いかなぁと思いつつ、やることはやったし、後は 4年間の活動を村民が評価してくれるはずだと思っていました。各候補者が19時頃まで懸命に選挙カーを使って連呼する中、私は普段通りの生活に戻っていま した。夕食を食べた後、村民から要望を受けている件で調査活動を夜遅くまでしていまいした。

 

 

 

 

 

9.投票日

 

6日目の投票日、私は前回選挙と同じように、午前中は子ども達と公園で過ごしました。

 

「随分、余裕だねぇ」

 

何人かの村民に声をかけられましたが、私は普段通りの生活を貫きました。子ども達にも選挙で大分迷惑をかけて きているので、せめてもの罪滅ぼしという気持ちが強かったです。午後には天然海水を販売している商売のため、青灯台へ海水を汲みに行きました。今日この日 に海水を汲まないと出荷できないため、仕方なく作業を進めていました。この商売の利益のほとんどが、政治活動費となっています。そのため私の心の中では

 

「この商売も政治活動うち・・・」

 

と思って活動していますが、他の村民は知るよしもありません。青灯台では

 

「余裕だねぇ」と「選挙も商売も大変だねぇ」

 

との2つの声がありました。私は周りの目を気にしつつも、黙々と作業をしていました。

 

 投票には午後一番で行きました。投票用紙に自分の名前を書くのは2度目です。一度目の時は緊張し過ぎて筆圧が強くなり、投票用紙を破ってしまいました。しかし、二度目ともなるとあっさりしたものです。ササッと自分の名前を書いて、素早く投票しました。

 

「この投票箱にはいくつ、俺の名前が書いてあるのだろう・・・」

 

そんな期待と不安を胸に抱きながら投票をしました。

 



 

10.選挙運動費用は8043円

 

投票日の午後、選挙運動費用の計算をしました。ポスターや選挙ハガキは前の選挙の時に買った在庫や、商売で 使っている紙やインク、ラミネートがあったので、お金が一切かかりませんでした。メガホンも普段の政治活動用に自分で持っていました。選挙カーは自家用車 です。選挙カーに貼るポスター、名前はすべて、自分で作りました。また、候補者の旅費交通費やガソリン代は計上してはいけないことになっています。そのた め、選挙費用として選挙管理委員会に報告義務のある費用は、選挙運動員の母島への移動の交通費5660円と弁当代800円、茶菓子代の1583円、合計で 8043円だけでした。

 

実際には私の交通費やガソリン代、実際に使ったはがき、紙、インク、ラミネートを含めると、2万円程だと思います。

 

この選挙費用で当選すれば大きく評価されると思いますが、落選すれば「選挙をなめてるのか!」という批判の対象になります。

 

 

 

 

 

11.開票

 

この日、開票が始まる午後9時頃まで、胃と頭が痛くて仕方ありませんでした。耐えきれずに痛み止めの薬を飲ん だ程です。胃痛は明らかにストレスです。頭痛は選挙期間中の雨に濡れたためだと思います。開票作業がはじまって開票状況を見守っていると、胃痛と頭痛はど こかに吹っ飛んでしまいました。緊張感だけが体を支配します。

 

「この4年間の結果がすべて出る」

 

こう思うと、これまでの4年間の活動が走馬燈のように思い出されます。各候補の名前が書かれた札の前に、 50票の束が次々に置かれていきます。当確ラインは120票程だと思っていました。私の札の前には早々から50票の束が置かれました。選挙前も選挙後も、 一切の票読みはせず、ただ政策を訴えてきた自分にとって

 

「50人かぁ・・・誰が投票してくれたんだろう・・・」

 

という思いでした。次に50票の束が置かれた時も

 

「100人かぁ・・・一体誰が・・・」

 

という気持ちでした。次に置かれた束は、50票を若干下回っていました。しかしこの時、自分の当選を確信 しました。嬉しさが込み上げてくるかと思いきや、誰が落選してしまうのか・・・という心配な気持ちに切り替わっていました。最後にすべての票が書かれた掲 示板が示された時

 

「当選したんだ・・・4年間の活動が認められたんだ・・・」

 

という嬉しい気持ちになりました。涙が出てくるかと思いきや、感傷にひたる余裕はなく

 

「応援してくれた人達に当選の連絡をしないと・・・」

 

と思って、すぐに携帯電話を動かしはじめました。家に帰っても当選の喜びというよりは、関係者や親戚への連絡と、たくさんかかってくる電話の対応に追われていました。

 

「当選の連絡をしていない人はいないか・・・漏れはないか・・・・」

 

こんな事ばかり考えていました。

 

 

 

 

 

12.当選証書の授与式

 

すべての開票が終わった30分後の23時から当選証書の授与式が福祉センターで行われました。私はスーツ に着替えて参加しました。当選証書を選挙管理委員長から受け取り、ようやく当選の実感が込み上げてきました。しかし、涙は出てきません。前回よりも5票多 い163人が私に投票してくれた責任の重さを感じていました。新しく当選した候補者に挨拶をし、携帯電話番号を聞いてまわり、今後の政治活動のスタートを 切りました。

 

 

 

 

 

13.陰ながら応援
公職選挙法の規定で祝賀会をやってはいけない事になっています。授与式から帰ってきたら家族がまだ起きていま した。4人家族だけのお祝いくらいは法律違反にならな
いだろうと思い、前回の当選と同じように冷凍お好み焼きとビール1本を準備しました。妻はお酒が飲め ませんので、私一人でお祝いの缶ビールを飲みました。自宅の都営住宅はこの日まで選挙事務所になっていましたが、結局、告示日から投開票日の6日間、選挙 関係で私の自宅兼選挙事務所を訪れてくれた村民はたった一人だけでした。当選後もお祝いで事務所にかけつけてくれた村民は一人もいません。各陣営は賑やか だったと聞いています。私の陣営は家族だけの静かな万歳三唱でした。しかし、子どもも含めて全村民2481人の6.6%、163人もの村民が私の名前を書 いて投票してくれました。

 

「陰ながら応援しているから」

 

選挙活動中に村民からよくこの言葉を聞きました。地縁血縁と仕事と土地関係でしがらみの強い狭い島の中では、 私を表立って応援してしまうと、仕事に差し障る場合もあると聞いています。たくさんの陰ながら応援してくれた村民の顔を想像しながら飲むビールは、とても おいしく、けれどもちょっとほろ苦い味がしました。大きく派手な万歳三唱はないけれど、村民から強く支えられている確かな実感はありました。半分ほど飲み 終えた後、私は頭を切り換えてすぐに机に向かい、明日に予定している政治活動への対応を再開しました。